30代のときに発症した不安障害を機に、小さな幸せ探しを始めました。
最初は「すぐに元に戻って、前のようにどんどん外に出てキャリアを積んだり、人脈を広げるような生き方をしたい」と思っていましたが、病状は一進一退の繰り返し。
やがて、そう思うたびに「できない自分はだめなんだ」と自分を責めえるようになりました。
そんな私に力をくれたのは、日常のあちこちに潜んでいた小さな幸せ。
すぐ近くにあるのに気づかれていない、小さな幸せってどんな感じなのか。
私が見つけた小さな幸せをお伝えしつつ、小さな幸せの見つけ方を紹介します。
50代主婦が日常で感じている小さな幸せ
以下は私が日々感じている小さなしあわせです。
この記事を書こうと思って一気に思い出したのではなく、手帳の日記メモに書いてあったことを引っ張り出してきました。
思っていた以上に結構たくさんありました。
- 眩暈や体調不良がなく朝起きられたとき
- 朝までぐっすり眠れたとき
- 日光を浴びながらウォーキングしているとき
- 綺麗な青空を見たとき
- 雨の日にゆっくりと過ごすとき
- 雨の音に聞いているとき
- ご当地グルメをお取り寄せしたとき
- 自分の並んでいるレジ待ちの列のほうが長かったのに短かった隣のレジよりも早く会計が始まったとき
- 雨予報だったのに晴れたとき
- 晴れ予報が雨になって外出の予定がなくなり家で過ごすことになったとき
- 適当な時間に家を出てバス停に向かったらちょうど目的地行きのバスが来たとき
- 買ったりんごに蜜が入っていたとき
- お気に入りのYouTubeのチャンネルが更新されていたとき
- 好きなアーティストの曲を聞いたとき

- 若い世代の流行りの曲に共感したとき
- 神社に行ったとき
- 観葉植物から芽が出ているのを見つけたとき
- 子どもがお風呂で鼻歌を歌っているとき
- 箱買いしたみかんがどれもこれも甘くておいしかったとき
- 散歩中にすれ違った飼い犬がめっちゃこっち見てきてしっぽ振ってるとき
- ぜんぶ食べたと思って捨てようとした袋から最後の一個がでてきたとき
- 安売りしていたからという理由だけで初めて食べたお菓子がおいしかったとき
- 財布にあと千円一枚しかないと思ったらぴったりくっついてて二千円だったとき
- 眠たくなると手が温かくなる子どもの手に触れたとき
- 真夏の暑い日にエアコンが効いた店内に入ったとき
- 真冬の寒い日にストーブのある室内に入ったとき
- RPG(ゲーム)でHPギリギリで町を目指していたら敵が薬草を落としたとき
- 端から端まで綺麗な虹を見たとき
- 読書に夢中になって気が付いたら窓の外の夕焼けが綺麗だったとき


- レジの会計が「777円」「1,111円」だったとき
- 自家製の焼き立てパンとホットコーヒーの朝食を食べたとき
- 新米のご飯を食べたとき
- 早朝のリビングが片付いているとき
- 汗をかいた体をシャワーで流しているとき
- 寝起きなのに髪型が整っているとき
- 適当に作った料理が「おいしい」と好評だったとき
- 家族で食事をしながら同じ話題で盛り上がっているとき
- ふわもこ靴下を履くとき
- 寝苦しくて動いていたらシーツがひんやりしている場所にあたったとき
- 夕食の洗い物が面倒でお風呂から上がったらやろうと思って上がってきたら片付いていたとき
- ブログの記事の更新ができたとき
- 書きたいことが書きたいようにスラスラと出てきたとき

小さな幸せを感じられる人は特別な存在ではない
娘が小学生のとき、帰宅すると開口一番に学校であったことを話してくれました。
「登校班の5年生のおねえちゃんが優しかった」「道にね、かわいい花が咲いていたの」「給食の切干大根がおいしかった~(渋い)」「教室で飼ってる魚が赤ちゃんを産んだの!」
小さな幸せを体いっぱいで伝えてくれる娘を見ながら、ふと、私も子どものときはこんな風に小さな幸せを感じるセンサーが働いていて、きらきらと目を輝かせていたころがあったのだろうなと思いました。
でも同時に、小さな幸せを見つける才能?能力?って、子どもだけに備わっていて、大人になったら誰もが失っていくものだとも思っていました。
ところが、娘は中学生になっても高校生になっても、大学生の今も、小さな幸せを見つけるのが相変わらず上手。
「家に帰ってきたらおいしいご飯とあったかいお風呂あるの幸せー!」「ママが元気で幸せ」っていいます。
大人だから小さい幸せには気づけないというのは私の思い込みでしかなったんです。
大人の私は、幸せを感じるには人一倍努力をして「勝ち取らなければならない」と思っていました。
さらに年を重ねると、お金や物が豊かにあれば必ず幸せになれるわけではない、ということもわかってきますよね。
そうすると今度は、自分を幸せにしてくれるのは一体なんなのか、わからなくなり…。
30代で不安障害になったとき、人生終わったと思いました。
今でも私は「不安障害になってよかった」なんて、聖人みたいなことはいえませんが、それでもあの経験があったから小さな幸せを見つけられるようになったと思います。
というか、小さい幸せを探すしかほかに方法がなかったんですけど。
大きな幸せは本人の努力だけではなく、運やタイミングに左右される部分も多く、誰もが掴めるものではありません。
だけど、小さな幸せを喜ぶことができる力は、きっと多くの人が持っています。
私は、今の世の中で使われている自己責任という言葉があまり好きではなく、小さな幸せを見つけられない人は、「それは探そうとしていないから自己責任だ」とはいいたくありません。精神的に追い詰められていたりストレスを感じている中で、幸せに目を向けるのは簡単なことではないと、私自身が経験で知っているからです。
小さな幸せが見つけられないと悩んでいるときは、まずは心と体の健康を取り戻すのが先です。私が今回伝えたいのは、社会的な成功や世間一般でいわれている幸せの在り方と自分の現状に乖離があると悩んでいるのなら、幸せはそれだけではないということ。「今は」小さな幸せが見つけられなくても、体が十分に休息して落ち着いたら、少しずつ心にも変化が出てきて小さな幸せに気づけるようになります。
小さな幸せの見つけ方
小さな幸せは周りにあるといわれても、最初は「どこにあるの?」と思いますよね。
私もそうでしたが、ちょっと視点を変えるだけで、さっきまで存在していなかったはずの小さな幸せが、周りにたくさん散らばっていることに気づきます。
「もしこれがなかったら」と考えてみる
布団がないと硬い床の上に直に寝なければならず、体が痛くて安眠できません。
電子レンジがなければ、「疲れたな~。今日は冷凍ご飯をチンでいいか」と思っても作れません。
私がよく思うのは、カニとか海老とかを最初に食べた人がいないと、自分は今も一生味を知らないまま生きていたんだろうなということ。
あんな硬そうな殻に覆われてて、しかも見た目もなかなか変わってる生き物を食べてみようと思った人がいたからこそ、私は今、「焼きガニおいしい~!」という幸せを得られているわけです。
ありがたいなと、自然と感謝の気持ちが芽生えます。

今ここに集中してみる
代わり映えせず、毎日同じことを繰り返しているように思えても、一日一日は違います。
夏に聞こえていた蝉の声も、秋になると電線に集まってキュルキュルと鳴くカワラヒワに変わります。
空気も日によって澄んでいたり、張り詰めていたり。
風の強さも、風が運んでくる匂いも、その日だけと思うと特別な一日に感じられます。
こうした「今」を意識することをマインドフルネスといい、目の前に集中することで喜びや感謝の気持ちを感じやすくなります。


他人を喜ばせる
外出先で配られているティッシュやチラシ。
家のゴミになるのが嫌でもらっていなかったけど、あるとき「私が受け取ったら、その分配っている人は早く仕事が終われるのかも」と考えてみました。
もちろん、その後にも仕事があって早く帰れないかもしれませんが、受け取ってみると拒否されることが多いのか「ありがとうございます!!」とそれは嬉しそうにいってくれる人もいて、なんだか私も嬉しくなりました。
スーパーで品出しのカートを押している人がいたら、商品を並べてくれてありがとうございますのつもりでそっと通路を開けると、大抵相手から「ありがとうございます」といわれます。
心が温かくなると、幸せだなと感じます。
おわりに
暗闇の中、懐中電灯で必死に「ない」幸せを探しても見つかりません。
でも、「ある」幸せに光を当てられたら、そこに幸せはあります。
大きな目標や夢を見るな、ということではなく、大きな目標や夢を叶えなければ幸せになれないと思っている方に、「そうじゃなくても幸せになれます」と伝えたいです。
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