歳を重ねることに、ネガティブなイメージを持つ人は少なくありませんよね。
失うものばかりで、得られるものなどない。
そんなふうに思っていませんか?
でも、50代に突入した私は、若いときよりもずっと生きやすいと感じています。
歳を重ねてもいいことなんてないと思っている方に、ぜひ読んでいただきたいです。
【50代主婦が実感】歳を重ねて得たメリット7選
白髪や衰えた体と引き換えに得た「経験値」は、生きにくさを感じていた私を生きやすくしてくれました。
若さと引き換えに今の「経験値」を失うなら、50代からの人生を生きる選択をすると言い切れます。
歳を重ねたからこそ得られたと感じるメリットをご紹介します。
「あきらめたくない」をあきらめられるようになった
可能性は若さの象徴のひとつですよね。
若ければ若いほどそれは無限で、歳を重ねれば重ねるほど有限になっていきます。
だからこそ人は、若いときになんでもチャレンジをすべきだと思うし、そういう価値観が当たり前のように浸透しています。
私は今より20才も若かった30代を、ずっと不安定な体調で過ごしていました。
行きたいところにも行けず、やりたいことも思うようにできず、若さを棒に振ったと思っていますが、本当につらかったのはなにもできない自分ではなく、周囲から「まだ若いのに」「それは本気でやろうとしていないだけだよ」といわれてしまうこと。
だから私も、立っているのさえやっとなくらい体調が悪くても、理想の生き方や暮らしをあきらめてしまうことを自分自身に許してあげられませんでした。
でも、50代になった今は、「あきらめる」って決してネガティブな言葉ではなくて、そのときの体調や心情に自分自身が寄り添いながら、ベストな選択をしていることなんだと思っています。
自分の健康がなによりも大事で、健康に勝る幸せなどないという経験は、多くの人は50代や60代になってから実感として得るのではないでしょうか。
私の場合はその時期が早くきてしまったことで、あきらめられずに苦しんだ時期が長くなってしまいましたが、健康の大切さに30代で気づけたからこそ、50代の今は無意味な「あきらめたくない」に縛られずに、自由に、穏やかに過ごせているのかなと思います。
本当の自分を受け入れて素直に生きられるようになった
30代で第一子を出産後、家中心の毎日を過ごすようになると、最初は「子どもが幼稚園に入ったら絶対に外に働きに行く。私に専業主婦は無理」と思っていたんですよね。
学生時代や社会人時代から、社交的な生き方こそ豊かな生き方だと思っていたし、自分自身もそういった生き方を望んでいると思っていました。
ところが、いざ子どもが幼稚園に入ると、結局私は外に働きに出ず、在宅ワーカー(Webライター)の道を選びました。
思い返してみると、幼少期の私は傷つきやすくて人見知り、自分の意見をはっきりといえず、いつも誰かの顔色を伺い、先生に怒られている同級生を見ているのが辛くて泣きそうになるような子どもでした。
今だったらHSPといわれるような、とても繊細で、感受性の強い性格だったことを、私自身が長らく封印していたのだと思います。
それは、私は弱い自分が嫌いで、ずっと強くなりたいと思いながら生きていたから。
強い自分という仮面をかぶりながら社会生活を営んできた私は、人間関係などに神経を使い、いつの間にか疲弊しきっていたのでしょう。
関わる人が基本家族だけの家中心の生活が、実はとても適していたのです。
でも30代~40代は、そんな自分を認めたくない一心でした。
弱い自分を受け入れるって、とても残酷で悲しいです。
でも50代の今は、繊細で傷つきやすい本来の自分を労わってあげたいと思っています。
よく頑張ったよ、もう無理をしなくていいよと自分を許しました。
今の自分が好きというわけではないものの、これが自分なんだと思って生きていく覚悟ができた、という感じです。
悩んでもすぐに解決しないことは悩まないようになった
若いときは悩みに振り回されたり、地の底まで落ち込んでしまうことが多く、心身のストレスによって胃潰瘍や自律神経失調症、不安障害などを経験しています。
でも今は、悩んでもすぐに解決しないことは、ひとまずグレーの状態で置いておくことができるようになりました。
なぜなら、悩みには自分が解決できるものと、自分じゃなくても解決できるものと、そもそも解決する必要がなく放置してOKなものの3つがあるからです。
そして、自分が解決できる悩みは、実はそんなに多くありません。
大抵は、自分ではどうしようもなかったり、反対にしばらく静観または放置しても、特に何事もなく世の中は回っていくことばかり。
悩んでもしょうがないことを何時間も何日も悩んで、心身に大きなダメージを与えてしまうなんて、とても不毛ですよね。
この年齢になってやっとですが、そこに気づけたのはとても大きかったです。
悩みの本質は、悩みそのものよりも悩みと自分の向き合い方なんだなとわかりました。
合わない人とは関わらないようになった
私はかつて、出会った人とはできるだけ仲良く、円満に過ごすことを理想としていました。
せっかくの縁を大事にしたいと思っていたのです。
なので、感覚的に「合わない」と思うのは、相手への理解が足りていない私の落ち度だと思い込み、良いところもあるのだから合わせなければと自分を納得させることに必死になり、とくに相手に悪意がない場合や親しみを込めて接せられると、自分の器が小さいのではないかと悩みました。
でも、相手がいい人か悪い人かは関係なく、自分に合わない人は一定数存在します。
人それぞれ育ってきた環境が違えば価値観も違うのですから、当たり前の話ですよね。
そして、価値観の違う相手ほど、こちらの事情や気持ちを察してくれることはありませんでした。
合わない人に無理に合わせる必要はないと気づいたとき、同時に私のことを合わないと思っている人に、理解してもらいたいと思う必要もないのだと気づきました。
私だけが100%頑張る必要もないし、相手に100%を求める必要もない。
お互いに「ちょっと合わないな」と感じた関係性をよくするために努力が必要なのは、お互いが相手に対して理解を深めたいと思ったときだけです。
だけどそんなふうに思い合える人と出会う確率は稀なので、合わない人とは関わらないで過ごすほうが、自分を傷付けずに穏便に暮らせると悟りました。
こうある「べき」がなくなった
私は元来、短気なほうではないのですが、結婚してからは旦那に対して「私のことを何もわかっていない」「わかってくれない」とよく思うようになりました。
特に、きっとこうするだろうという予測した行動を旦那がとってくれないと、失望すると同時にこれまで感じたことのない強い怒りがこみ上げてきて、ひどいときは目の前で話しかけてくる旦那を無視するようになっていました。
「私が風邪を引いて寝込んだとき、熱があっても食べられそうなものを買ってきてくれなかった。」
「義母が遊びに来るとき、子どもの夜泣きが続いて寝不足の私を気遣って断ってくれなかった。」
これらは、優しさがあれば当然「買ってくるべき」や「断ってくれるべき」と思っていた私の価値観。
一方の旦那は「食べたいものがあれば自分から頼むべき」「嫌だったら嫌というべき」と思っていたようです。
この「〇〇するべき」は長年、自分に染み付いたもので簡単には解けません。
しかも、正義感や親切心がベースになっていると、自分の思う「べき」が絶対に正しいと思ってしまうんですよね。
私も最初は、「熱があるのにこれ買ってきてあれ買ってきてと頼めというの?!」「義母に来るなと言えっていうの!?」と旦那の「べき」が理解不能でしたが、次に熱を出したときに「アイスクリームが食べたい」と伝えると、わざわざ遠いコンビニまで巡って複数の種類を買ってきてくれました。
義母の訪問を断りたいときに「私からはいえない」と旦那にいうと、上手い理由をつけて断ってくれました。
旦那は「熱があっても自分で買いにいくべき」や「嫁は義母が遊びにきたいといったら断るべきではない」とはいっていなかったんですよね。
自分の「べき」に疑問を持ったり、相手の「べき」を寛容に受け入れられるようになると、何よりも自分が楽になったと感じました。
それでも今も、自分の「べき」が完全に捨てられたわけではありません。
でも、私の思う「こうあるべき」とは違っても、そこから大きくはみ出してなければOKと思えるようになりました。
ポジティブ思考は必要はないと思えるようになった
50代主婦の生き方と検索をすると、「歳を重ねて素敵になる」とか「自分らしく生きる」といった言葉が目に留まります。
一見ポジティブに聞こえますが、私にはなんとなく負担を感じる言葉です。
というのも、歳を重ねて経験値が上がったら、周囲から「素敵な人だね」「あなたらしいね」と思われるようにならなければいけないの?と思ってしまうからです。
自分らしい生き方なんて、50才になった今でもよくわからないです。
白髪が増え、肌のハリがなくなり、疲れやすく、更年期のさまざまな症状で悩むことが多い50代に、思考を前向きにしましょうといわれるのは酷でした。
素敵じゃなくてもいい、自分らしさなんてよくわからなくてもいい。
それでも、毎日ちょっとしたことを「嬉しい」と思ったり「楽しい」と感じていると、不思議と体調が安定して少しずつ前向きになれたりします。
50代以降は、前向きな思考はモチベーションを上げて「作る」のではなく、自分がしたいように暮らしている中で、自然発生的に沸いてきたらラッキーくらいのスタンスでいいと思っています。
周りの目が気にならなくなった
私がWebライターを始めた14年前は、今のように世間に知られた職業ではなかったので、「内職でしょ?」とか「働きに出ず一日中家にいてつまらなくない?」など、周囲からは随分と勝手に思われていたものです。
当時はそんな目が気になってしまい、Webライターについて事細かに説明したり、在宅でパート並みに稼げることをアピールしたりしていました。
親に子どもを預けられないからとりあえずWebライターをやっているだけ、働こうと思えばいつでも外で働けるよ、そう誰かに言いたかったのかもしれません。
今は、自分で選んで働いているのがすべてであり、他人にとやかくいわれることに悩まなくなりました。
それは服装も同じで、若いときはハイヒールを履いて、周囲から「おしゃれだね」といわれるようなファッションばかりをしていました。
でも今は清潔を心がけてさえいれば、基本的には自分が楽で着たい服を選んでOKにしています。
そう思えるのは、年齢的な意味合いがとても大きいです。
私は「綺麗に見られたい」の自意識過剰タイプではなく、「無様な姿を相手の瞳に映してしまうのは申し訳ない」と思う捻くれタイプの自意識過剰だったのですが、50代にもなると町を歩いていても誰も私を見ていない事実に気づきます。
私が昨日と同じ服を着ていても、そんなことは誰も気にしていないのです。
他人を気にせず生きられるようになったのは、精神的に大きな枷が外れた爽快感があります。
まとめ
- いい意味であきらめがつくようになった
- 自分の本音に向き合えるようになった
- 悩みの本質を見極められるようになった
- 合わない人とは関わらなくてよいと思えるようになった
- こうあるべきに縛られなくなった
- ポジティブ思考でなくてもよいと思えるようになった
- 周りの目が気にならなくなった
50才からの人生は坂道を転げ落ちながら、手にした大事なものを失っていく。
そんなふうに思っている人に伝えたいのは、確かに50代は上り坂の途中ではなく、頂点を折り返した下り坂であるのは間違いないでしょう。
でも、決して転げ落ちるのではなく、躓いたりしないように気をつけながら、少しずつ自分に必要のないものを手放しているだけ。
そして、失うばかりと思っていたけれど、若いときには気づかなかった景色や気持ちに寄り添うことができるようになります。
20才のときは、自分との付き合いも20年。
でも、50才は自分との付き合いが50年になり、自分がなにを望み、なにを嫌がり、なにを幸せに感じるのかわかってきます。
だからとても、生きやすいです。
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